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「最低でも3期6年はやせていただきたい!」多彩なゴルフ人生・倉本昌弘新会長、PGA改革へ強腰宣言

PGA新会長に選出され記者会見する倉本昌弘氏(2月24日、東京・浜松町WTCコンファレンスセンター)
PGA新会長に選出され記者会見する倉本昌弘氏(2月24日、東京・浜松町WTCコンファレンスセンター)

昨年来、暴力団幹部との交際が発覚し揺れに揺れていた日本プロゴルフ協会(PGA)は、新会長にまだ現役選手としてプレーしている国内レギュラーツアー通算30勝の永久シード選手、倉本昌弘氏(58)を選びました。昨年12月、森静雄会長を含む理事、代議員(全国14地区)が総辞職。2月24日東京・浜松町で″出直し〝を図る総会・理事会が開かれました。総会では新代議員(総勢93人、出席90人)による会長選を行い、立候補していた倉本昌弘氏、前会長の森静雄氏(60)の一騎打ちは、57票を獲得した倉本氏が32票の森氏を抑えて新会長に選出されました(有効投票89)。理事会で承認された倉本新会長は、直ちに副会長4氏を選び、PGA改革のためにと銘打った経営マニフェスト(公約)も発表。一躍、新生・PGAの先陣に立つ″注目の人〝となりました。

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総会・理事会後行われた記者会見で倉本新会長は、手はずよく″公約〝を発表。その冒頭でPGA幹部が犯した今回の不祥事について「PGA発足以来、最大の危機」と断じ「その危機を乗り越えなければなりません」と、危機感を強調しました。「信頼を回復し、盤石な基盤を築くには改革の断行が必要です。その第一歩として、組織・制度・運営のすべてを見直し、社会的信頼を回復し、会員の社会的地位と資質の向上に努めます」として、PGA改革に乗り出す強い意欲を表明しましたー。

2月24日(月)。関係者がかたずをのんで見守るPGA総会は、東京・浜松町の世界貿易センタービル39階の「WTCコンファレンスセンター・ゴールド」で開かれました。全国14地区に分布している代議員総勢93人のうち90人が投票した会長選。かって会長選は、理事による互選で選出されていましたが、選挙改革で森会長就任のとき(対抗者なし)から改められ、今回が初めて実施された代議員の投票による会長選でした。倉本・森氏による立候補演説のあと行われた投票は、有効89票のうち倉本昌弘氏が57票を獲得、32票の森静雄氏を大差で抑える結果となって会場はどよめきました。この後、新理事による理事会が開かれ、投票の結果が了承されました。

倉本昌弘新会長を中心に握手する4人の新副会長=井上建夫(62)、植田浩史(55)、坂井初敏(62)、渋谷稔也(55)=(東京・浜松町)
倉本昌弘新会長を中心に握手する4人の新副会長=井上建夫(62)、植田浩史(55)、坂井初敏(62)、渋谷稔也(55)=(東京・浜松町)

第11代目のPGA会長に選ばれた倉本昌弘氏は、史上初となる永久シード保持者の新会長。58歳で、シニアツアーはもちろんレギュラーツアーも永久シード選手の資格で昨季まで出場していました。昨季はシニアツアー7試合(賞金ランク15位)のほか、レギュラーも10試合に出場(予選落ち7回)、賞金ランクは147位に終わっています。PGAの会長はいままでもすべてプロゴルファーですが、レギュラーツアーでもまだプレーしている選手がトップに就いたのは初めてです。もっとも会長就任で「レギュラーツアー(出場)はやめる」(倉本)と明言していますが・・。

総会後の記者会には、報道陣以外にもスポンサー関係の姿も見られるなど、会長選への関心の深さをうかがわせました。総会で使用した「経営マニフェスト(公約)」をそのまま報道陣にも配布。手際のいいところをみせましたが、組織改革・制度改革・意識改革を提案し、さらにその具体案にも触れていました。

☆約1億人いるといわれるゴルフ未経験者をゴルフに取り込む施策の実施(底辺拡大事業)。

☆インストラクターの教育や練習場を活用しての顧客誘導、練習場等へのインストラクターの派遣。

☆将来的にはフラッグシップとなる練習場・ゴルフ場をPGAが運営しノウハウを蓄積することなどによってPGAスクールの確立。

☆懸案の男子ツアーを主管する日本ゴルフツアー機構(JGTO)との連携。「一度はPGAを出て行った倉本昌弘がなぜ?という声もあるかもしれません。しかし会長になることによって、97年当時発足させたがうまく運営できなかったPGAツアー・オブ・ジャパンの組織を、リニューアルしながら新しい組織を作り上げたい」と、前向きな姿勢を強調。「PGAとJGTOの両団体は両輪のように連携してゴルフ界の発展を目指さなければなりません」ときっぱり。過去、いったんはPGA理事会・総会で決議されながら頓挫している「PGAツアー」の商標使用をJGTOに改めて活用してもらえるよう交渉を進める・・など強い意欲を示しました。

さらには「自分のジュニア、学生、アマチュア、プロとして経験した実績をPGA改革に生かしたい。世界のゴルフ団体とのネットワーク・人脈を生かしたコミュニケーションを一層深め、世界の一員であるPGAを目指す」と、これまでの自らの豊富なゴルフ実績を全面に押し出すなど、総じて声高らかな公約表明。「これらを実行するためにも1期2年だけでなく、3期6年をかけてやり遂げたい」と、ぶち上げてPGA改革への全力投球を宣言しました。

ただ、PGAが犯した黒い交際という一大不祥事に対する謝罪や反省はなく、その点を報道陣から問いただされて、初めて口を開きました。「私たちの不祥事によって今回のこういう事態になった。これからは私が全国各地域を回って、できれば5200人の協会会員全員と会い、暴力団排除を訴え、徹底をしていきたい」と反社会的勢力との決別を宣し、もし″黒い交際〝が発覚した場合は「即資格停止や除名処分など重い処分を科していく」との強い姿勢を表明しました。

PGA総会・理事会のあと記者会見に臨んだ倉本昌弘新会長と副会長(東京・浜松町)
PGA総会・理事会のあと記者会見に臨んだ倉本昌弘新会長と副会長(東京・浜松町)

倉本昌弘といえば、10歳でゴルフを始め、アマチュア時代は高校生でアスレチックジムに通い、筋力トレで体を鍛えたことから「ポパイ」のあだ名がつきました。日大時代は小柄ながら飛びぬけた飛距離を武器に日本学生4連覇。日本アマ3勝。関東アマ2勝など、アマチュアタイトル総なめにしトップアマに君臨。ところが78年、米国からの帰り、知人に騙されて大麻を所持して摘発される大事件を起こしたのも忘れられません。1年間の公式戦出場謹慎処分となり大きな挫折を味わいました。しかし、80年、アマチュアとして参加した「中四国オープン」で史上初のツアー優勝を果たしてカムバック。81年、2度目のプロテスト挑戦で合格。デビュー戦、後援競技の「和歌山オープン」でいきなり優勝すると、ツアー競技でも4勝して賞金ランク2位に入る鮮烈デビューでした。プロ2年目の82年には全英オープンで日本人の過去最高位、4位タイの偉業。92年には通算25勝を挙げ、日本男子プロゴルフ史上5人目、大学出身初の永久シード権を獲得。92年には米Qスクールをトップ通過し、93年は米ツアーに挑戦しましたが、成果はえられないまま1年で米国を撤退。しかし米ツアーで戦った経験から、米ツアーの組織力、トーナメント運営のノウハウなどを学び、97年には「ツアー・オブ・ジャパン」を発足させるゴルフ界改革に手をつけました。そして1999年、PGAから分離独立した日本ゴルフツアー機構(JGTO)を立ち上げたとき、中心人物として動いた男として有名です。2000年には心臓弁膜症の手術を受けるなど苦難の年もありましたが、03年、アコムインターナショナル初日に、日本ツアー史上初の59ストロークを48歳で達成。不死身のカムバックで驚かせました。シニア入りした05年にはチャンピオンズツアー(米シニアツアー)の最終予選会でトップ合格。米国でつけられた「マッシー」のニックネームで06年からチャンピオンズツアーに3年間挑戦。08年限りで米シニアを撤退。国内シニアツアーに主戦場を移しました。その間、JGTOの副会長、選手会長、PGAでは理事と、両団体にまたがる役員を続けるなど、まさにゴルフ界の風雲児・倉本でした。

PGAの新会長に選出されたことから、さすがにJGTO役員との掛け持ちはできず「3月6日の理事会でJGTO副会長は退任する」(倉本)としています。多彩なゴルフ人生を歩んできた男・倉本昌弘。歴史ある日本プロゴルフ協会の″危機〝を、どう切り抜けますか。まずはお手並み拝見というところです。